人の頼みを断れません。罪悪感を抱かずにいるには?

愛・人間関係

人の頼みを断れません。
罪悪感を抱かずにいるには?

2024.10.01 トランサーフィンセンター 質疑応答ライブ

頼まれると断れない。断ると罪悪感が湧く。気づけば、いいように使われている。
——そのことは自分でも分かっているのに、抜け出せない。
そんな質問への、タチアナ・サマリナの回答です。かなり踏み込んだ答えが返ってきます。

質問

トランサーフィンの原則の一つ「自分には自分であること、他人には他人であることを許せ」。これには完全に同意しますが、それに従うことができません。
他の人々の痛みをとても感じ、それを自分のものとして受け取ってしまいます。全員を助け、落ち着かせ、彼らの問題を解決してあげたくなります。
他人の事に介入しなければ、助けられたのに助けなかったという罪悪感が湧いてきます。頼まれた時に手助けを断るのは難しいです。操作(マニピュレーション)の対象になってしまいますが、このシナリオから抜け出すことができません。
自分は助けなければならない、あるいは助ける義務すらあるのだという内なる声があります。
私が手助けをした後、人々の人生は好転するのに、私には強い疲労感(あるいはそれより悪い状態)が残ることに気づきました。
他人の問題に正しく関わるにはどうすればよいでしょうか? 手助けしたくないと思ったときに、罪悪感を抱かないようにするにはどうすればよいでしょうか?

NOTE ── 操作(マニピュレーション)とは?

他者や振り子(システム)が、あなたの中にある「罪悪感」や「義務感」「嫌われたくない・冷たい人だと思われたくないという恐れ」をフック(吊り針)にして、あなたを思い通りにコントロールすることを指します。

トランサーフィンでは、「自分の中にある罪悪感や自己否定」こそが、他人からコントロールされる最大の原因だと述べています。

「断ったら申し訳ない」「助けないと私は冷たい人間だ」という思い込み(内的重要性/過剰ポテンシャル)があると、世界という鏡はそれをそのまま反映します。すると相手は無意識のうちに「あなたに罪悪感を抱かせるような態度や頼み方」をするようになります。
これが「操作(マニピュレーション)」の正体です。

他人を助けることを断れません。どうすれば罪悪感を感じずにいられますか?(ロシア語)
2024.11.05 公開 ── 質疑応答ライブ 抜粋
動画はロシア語です。再生できない場合は YouTubeで視聴 →

「理解している」と「認識している」は、別のもの

サマリナ氏の回答は、質問者が書いた一行を突くところから始まります。
質問者は「そのことは認識しているのですが、抜け出せない」と書いていました。それに対して——

あなたは「私はそれを認識している」と書いていますが、あなたは認識(気づき)していません。ただ理解しているだけです。
あなたはいわばそれを観察してはいますが、認識はしていません。
認識は、問題の解決へと導きます。

タチアナ・サマリナ

覚えておいてください、と彼女は続けます。認識と理解は、全く異なる2つのものです
人はすべてを理解しています。私たちは愚かではありません。ありがたいことに理性を持っています。知性を持っています。それなのに、何もすることができない。一部の人々は本当に驚異的な知性を持っていますが、それでもどうすることもできない。
つまり、私たちは認識しているのではなく、理解しているだけだ、ということです。

認識とは、暗い部屋の中の光のようなものです。
すべてがわかり、すべてが見え、私にはすべてが明らかです。以上、終わりです。

タチアナ・サマリナ
NOTE ──「理解」と「認識」の違い

この違いは、トランサーフィンにおいて「人生が変わるかどうか」を分ける、最も決定的な違いともいえるでしょう。

一言で言うと、「理解」は頭(思考・マインド)のレベルで知ることであり、「認識」は魂・意識のレベルでパッと電気がついて「腑に落ちる」ことです。

私たちは賢いので、本を読んだり話を聞けば「なるほど、そういうことか」と理解できます。しかし、知性でいくら理解していても、現実に起きているパターンや自分の感情・行動を変えることはできません。なぜなら、ヴァジム・ゼランドが再三言っているように、「理性(頭)は過去のデータ処理しかできない」からです。
「理由は全部わかっているのに、なぜか同じパターン(罪悪感や断れないことなど)を繰り返してしまう」「どうやってこのシナリオから抜け出せばいいのか分からない」と悩むのは、すべて「理解」にとどまっているからです。

一方、「認識」とは「暗い部屋の中の光のようなもの」と例えられていましたが、暗闇の中で手探りで「どうしよう、どう抜け出そう」と悩んでいた状態から、パッと電気がついて、一瞬で部屋全体が明るくなり、「なんだ、ここにこうあっただけか」と全体像が文字通り「見えてしまう」感覚です。

その結果、無理に自分を変えようとしたり、特別なテクニックを使おうと努力しなくても、内なる状態(波動・視点)が一瞬でシフトします。その瞬間、マトリックス(振り子)のシナリオから自動的に抜け出すことができ、問題そのものが消えてしまうか、どう行動すべきかが自然とわかるようになります。

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魂は「しなければならない」とは言わない

次に、質問にあった「内なる声」が取り上げられます。それがどのような内なる声なのかを、整理する必要がある、と。
「私には義務がある」と言うその声は、本当に魂から来ているのか

ここでサマリナ氏は、判定の基準をはっきり示します。

あなたが魂を感じ、自分の魂と結びついているとき、
ここで魂が「あなたには義務がある」「あなたはしなければならない」と言うことは決してありません。
あなたの頭の中で、そのような考えが響くことはありません。

タチアナ・サマリナ

魂から来るなら、それは義務ではなく欲求(そうしたいという必要性)として現れる。
そして、そのために必要なのは、まず自分自身と、自分の魂と結びつくこと。注意の管理と、自分自身を、自分の魂を感じ、聞くこと——それが第一だ、と言います。

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天職か、押し付けられたプログラムか

では、他人を助けることが本当にその人の天職である場合は、どうなるのか。
サマリナ氏は、そういう人々は確かに存在すると認めます。人生を本当に、真に他の人々に捧げている人たち。ごくわずかだけれど、いる、と。

ただし、そこには決定的な違いがあります。

天職である場合

それを実現することで、満たされ、拡大する。自分から神聖な光が溢れ出るのを感じる。たとえ自分のことを忘れるほどであっても、空っぽにはならない。それが魂の声であり、真の魂の命令であり、欲求であり、天職。

プログラムである場合

疲労感、虚無感、罪悪感が残る。自分自身のことを忘れている。それは天職ではなく、外部から押し付けられたプログラム。子供の頃からのものかもしれないし、それ以前からかもしれない。いつからかは重要ではない。

「しなければならない、罪悪感がある、しなければならない、罪悪感がある」——あなたは、このようにしてゲームになっている(振り子や台本が作ったシナリオの上で、自分の意志を失い、無意識に登場人物(配役)を演じさせられている状態)のです、とサマリナ氏は言います。

そして、その罪悪感を引き受けるとき、人は眠っている状態でそれを引き受けている。だからこそ、何でもかんでも押し付けることができてしまうのです。
(眠りに落ちているとき、内なる見張り役/観察者がOFFになっているため、無人の税関状態になっています。そのため、「待て、その荷物(罪悪感)は本当に私のものか?」や「これは本当に私の荷物(責任)か?」「相手の操作(マニピュレーション)ではないか?」といった検閲がされずに、何でもかんでもすべてがフリーパスで入ってくるのです。)
認識しなければならないのは——これがそもそも、あなたの魂には全く関係がない(あなたの荷物ではない)ということです。

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罪悪感の奥に、隠れているもの

ここから、回答はさらに踏み込みます。

質問者は「私が手助けをした後、人々の人生は好転する」と書いていました。しかしサマリナ氏は、それを確実に知ることはできない、と言います。私たちは、自分の鼻の先までしか見えていないのだから、と。

「地獄への道は善意で敷き詰められている」という言葉がありますが、助けた直後はすべて順調に見えるかもしれないけれども、その後はどうなるのか、本当のところはわかりません。あなたは彼の人生に、何をもたらしたのでしょうか?
もしかすると、その人はその教訓を自力で通過し、自分の中に力を見出し、自分の中に支えを感じる必要があったのかもしれません。
それなのに、そうすべきではなかった場所で「藁を敷いて(転ばぬ先の杖を出して)」しまい、彼の人生や発展に、何一つポジティブなものをもたらさなかったのかもしれないのです。

NOTE ── 理性は、鼻の先までしか見えない

そもそも人間の理性(頭)は近視眼的なため、遠い未来や因果関係の全貌を見通すことはできません。理性が把握できるのは、せいぜい「今、相手が喜んだ」「今、問題が解決したように見える」という、自分の鼻の先(目の前の1コマ)だけです。
しかし、可能性の空間(バリアントの空間)には無限のシナリオが広がっています。目先ではよかったように見えても、それが本当に相手の人生にとって「プラスだったのかマイナスだったのか」など、本当の意味では知る由もありません。

もう一つ重要なのは、タチアナ・サマリナは「傲慢さ」と表現しましたが、「私が助けたから相手が好転した」という思いの裏には、無意識の「見下し(過剰ポテンシャル)」が潜んでいるということです。そしてこの傲慢さ(無意識の見下し)と罪悪感は、同じコインの裏表ともいえます。(この「傲慢さ」に関しては、後半のNOTE ── HEH編集部でも取り上げています)

そして——そのような「手助け」の裏側にあるものを、サマリナ氏は名指しします。

このような手助けの裏側は、傲慢さと呼ばれます。
それは罪悪感やその他のすべての背後に、非常に深く隠されているかもしれません。
「私がいなければどうにもならない」「だってこの人は私がいなければどうにもならないのだから、私が助けなければならない」——そう感じるときです。

タチアナ・サマリナ

なぜ、そうなるのか。理由もはっきり述べられます。

これが起こるのは、人が自分の人生に取り組まず、自分自身を大切にせず、この転生において、自分の人生を大切にしていないからです。
まさに私たちがこの人生を大切にしないとき、私たちはすぐさま他の人々の人生に関わり始めるのです。

タチアナ・サマリナ
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では、どうすればいいのか

処方は、明快です。

人々を助けたいと本当に望むなら、まず自分自身を助けること。
本当に自分の人生に取り組み、自分の中に力——自分の中のスピリットの力としての力を感じること。そして自分の人生に、自分が望むものをもたらし、幸せで調和のとれたものに創り上げること。
そのうえで、その状態から、どのように人々を助けたいかを言ってほしい、と。

そして、最後に大切な但し書きが置かれます。

私は、もう他人を助けてはいけないと言っているわけではありません。
いいえ、私たちが人々を助けるのは素晴らしいことです。それは私たち(のエネルギー・フィールド、意識の器、個人の世界層)が拡大する(豊かに広がる)ことに繋がります。
しかし、それが私たちを消耗させる時であってはなりません。

タチアナ・サマリナ

別の状態から行動するとき、あなたは自分自身と他の人の両方を、同時に助けている——回答は、そう結ばれます。

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NOTE ── HEH編集部

この回答の中で、いちばん刺さる——そして、いちばん誤読されやすい——のは「傲慢さ」の一語だと思います。

断れずに疲れ果てている人が、その状態を相談して、「あなたの罪悪感の裏にあるのは傲慢さです」と返される。字面だけを受け取れば、責められたように感じても無理はありません。

けれど、サマリナ氏はその直後に原因を述べています。それが起こるのは、その人が自分の人生を大切にしていないからだ、と。つまりここで言われている傲慢さは、自分を高く見積もりすぎている、という意味ではありません。むしろ逆で、自分の人生の価値を低く見積もっているために、他人の人生のほうが手をつけやすくなっている——そういう構造の指摘です。道徳的な断罪ではなく、力の向き先の話だと読めます。

もう一つ、この回答が丁寧なのは、「助けるな」とは一言も言っていないことです。むしろ「人々を助けるのは素晴らしいこと、それは私たちを拡大させる」と明言したうえで、条件を一つだけ付けている。それが自分を消耗させる時であってはならない、と。
だから判定は、行為の内容ではなく、その後に自分がどうなっているかで下されます。満たされて拡大しているのか、空っぽになって疲れているのか。同じ「人助け」でも、そこで別のものに分かれる。

この構造は、当サイトの用語辞典でいう依存関係とも重なります。依存関係の核は「私の幸せは●●次第」でした。ここで起きているのは、その変形——「私の価値は、役に立てるかどうか次第」です。相手が主語になっている点は、同じです。

そして「まず自分自身を助けること」という順番は、「新しい現実」は、あなたから始まる!で語られていた順番と、まったく同じものです。自分が空っぽのまま誰かのために何かをしようとしても、届くものがない。順番の話であって、冷たさの話ではありません。

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魂は「しなければならない」とは言わない
ただ、そうしたい、と言う

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この記事を書いた人

トランサーフィン/タフティのロシア語一次ソースを辿り、誰でも原典へ還れる知のインフラ〈Heh〉をつくっています。
源泉と日本語のあいだに立ち、消費されて終わる「知」ではなく、知から、命(ち)へ。
その道の先で、原典と人生が交差することを願っています。
noteではこのサイトのBackstage的なものを発信しています。→https://note.com/hip_raven7504

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