About / この場所について
CROSSOVER DIMENSION:HEH
とは
このサイトは、ロシア人作家のヴァジム・ゼランドのトランサーフィンおよびタフティをはじめとする「知」のオープンアーカイブです。
ロシア語による一次ソースを日本語でたどるためのオープンアーカイブですが、翻訳して「答えを示す」ことが目的ではなく、ロシア語の一次ソースと日本語をむすびながら”知のインフラ”を織りなしていくことです。
知を消費して終わりにするのではなく、知から命(ち)へと循環させていく。そのためのサイトです。
CROSSOVER DIMENSION:HEH というサイト名について
HEH(ヘフ)は、エジプト神話で「無限の空間」を神格化した存在です。混沌の海から生まれ、両手に無限の年月を捧げ持った姿で描かれることが多いようです。
そして HEH という三文字は、前から読んでも後ろから読んでも同じです。
H — E — H
対称であり、循環であり、永遠であること。名前そのものが、その意味を形として生きています。過去から未来へ読んでも、未来から過去へ読んでも、あるいはこの世からあの世へと読んでも、あの世からこの世へと読んでも変わらない——その構造はタフティ・イトファト(Тафти Итфат / TAFTI ↔ ITFAT)の名前にも見られます。
そして、タフティはこう語ります。
わたしは、”永遠”からやってきました。
CROSSOVER:交差、横断、融合。DIMENSION:次元、領域。HEH:無限そのもの。
最初は、別の名前を考えていました。けれど、あれこれ考えつづけるうちにこの名にたどり着き、HEH が回文だと気づいたのは、すべてが決まったあとのこと。名前のほうが、先に答えを知っていたようでした。
サイトの特徴
一次ソースのみを取り扱っています。一次ソースとは、
・ヴァジム・ゼランドの著作
・ヴァジム・ゼランド公式サイト https://zelands.ru/
・タフティ公式サイト http://tufti.ru/
・ヴァジム・ゼランド公式SNS
・トランサーフィンセンター公式サイト https://tserf.ru/
・トランサーフィンセンター公式 YouTube https://www.youtube.com/@TserfRu
・トランサーフィンセンター公式SNS
・公式サイトやトランサーフィン専用アプリで紹介されているヴァジム・ゼランド以外の著者によって書かれた公認トランサーフィン関連書籍
所有書籍の全リストと各URLは、こちらのページにまとめています。一次ソースについて →
ヴァジム・ゼランドは自らを「創始者ではなく、単なる”中継器”」と呼んでいます。バリアントの空間からおろされた「知」を言語化して文字におこし書物という形で世の中に示すのがヴァジム・ゼランドなら、それをゼランド氏とコンタクトを取りながら、普段の日常生活でわたしたちが「現実」と呼んでいる物理世界に落とし込み、実践をつたえているのがトランサーフィンセンターの創設者タチアナ・サマリナです。
なぜ、このサイトを創ったのか
「一次ソースにあたってください」——ヴァジム・ゼランドが常々、自身のサイトやSNSで口を酸っぱくして言い続けている言葉です。
しかし、日本においてこれはなかなか容易ではありません。ロシアでは、ゼランド氏とトランサーフィンセンターのコンテンツがまとめて一か所で閲覧できるMAXというロシア産のプラットフォームがありますが、残念ながらこれに参加できるのは現時点で旧ソ連の国(ウクライナ以外)の国民に限られています。
そもそもヴァジム・ゼランドの著作は共著も含めると20冊以上になります。そしてこれらはそれぞれが独立した内容ではなく、すべて繋がっています。にもかかわらず、日本で翻訳されているものはそのうちのリアリティ・トランサーフィン(2巻以降は未だ絶版)、タフティ・ザ・プリーステス、78日間トランサーフィン実践マニュアル、セルフ・トランサーフィンのみです(タフティ・ザ・プリーステス2が2026年冬に出版予定)。
翻訳されても、ロシア語圏ですでに読まれているものと、日本語で読めるもののあいだには、数年単位の隔たりがあり、前提の差になっています。また、ヴァジム・ゼランドの支援によって設立され、ゼランド氏がオブザーバーを務めるトランサーフィンセンターには2000本を超える動画と記事がありますが、こちらもほとんど知られていません。
そんななか、原典はしばしば、「切り抜きによる要約」と「又聞き」だけが先まわりして消費されていきます。「消費されるだけの知」です。
わたしは、かつてセミナー業界とよばれるところで仕事をしていました。その間、「大量に消費されて終わる知」を見てきました。その場では刺激的で、わかった気にさせてくれる。けれど、それらは、本当に人を幸せにするものではありませんでした。消費されて終わる知は、いつも次の刺激へと人を急がせ、本当の幸せ、本当の願いからは遠ざけていきます。
「知」とは、本来、しあわせをもたらすものだと思っています。あらゆる学問も、芸術も、信仰も、最後に向かっている場所はしあわせではないでしょうか。直感やひらめきは、その一雫なのだと思います。
消費されるだけの知に命(ち)はありません。だから循環もしません。そして循環しない知はやがて消えていく運命にあります。本当は循環する知もたくさんあるのだと思います。でもそれらは循環する前に「わかりにくい」「要は何なの?」「ポイントだけ絞って伝えて」「3分以内でまとめて」「わかんないからもういいや」の前に、本来の像を結ぶ前に消えてしまいます。
“ち”かしこみ申すということ
ヴァジム・ゼランドが度々「一次ソースにあたってください」「偽物(海賊版、なりすまし)や情報商材屋に気をつけて」と言い、ときに怒りさえ感じることがあるのは、単に「著作権侵害だから」「自分のブランドを守るため」というわけではないな、ということを感じます。
ヴァジム・ゼランドも、またトランサーフィンセンターのタチアナ・サマリナも「私たちは何かを教え込む『教師』ではなく、読者が自分自身で答えを見つけるのを助ける『渡し守』である」と自分たちのことを定義しています。
ヴァジム・ゼランドは一番最初の『リアリティ・トランサーフィン』1巻の中で「これを行うことを、許されたときから」と表現していますが、ここには「自分のもの」として売る人ではなく、「自分を通ってきたものを、そのまま次へ渡す責任を持つ人」というニュアンスを感じます。
そして日本の神道だと、神様の前で「かしこみ かしこみ 申す」と言う言葉がありますが、自分より大いなるものの前で、おそれ、うやまい、かしこむということと同じように、ゼランド氏には「知を預かる者として」「知が生まれてきた源なるものへの敬意」があるように感じます。消費されておわる知にはそれらがありません。
だからこそ、ヴァジム・ゼランドやタチアナ・サマリナが「一次ソースにあたってください」「偽物や情報商材屋に気をつけて」というとき、そこには「途中で誰かの欲望や都合によって変形されたものではなく、まず源泉と向き合ってほしい」という願いにも似たものを感じるのです。
だからこのサイトでは二人のことを「知の取次者」として表現しています。そしてわたし自身もまた、「発信者」としてではなく、本物が人から人へ歪まずに受け渡される”関係”や”流れ”をサイトを通して作っていくことを目的の一つにしています。
なぜ、届きにくいのか
とはいえ、ヴァジム・ゼランド自身も「リアリティ・トランサーフィンの引用を流すだけの情報源の方が、購読者数、視聴回数、いいねの数が多いのです」と述べている通り、ヴァジム・ゼランドやトランサーフィンセンターの発信より、無関係の第三者による「ざっくり解説」のほうが、何十倍も再生され、読まれているのも事実です。
トランサーフィンに触れたことのある人なら、一度は気づく光景だと思います。なぜ、大元のほうが届きにくいのか。理由は、少なくとも三つの層に分けられます。
一つ目は、通信と政治の層。ロシア発のコンテンツは、近年の国際情勢のなかで、西側のプラットフォーム上では届きにくくなっています。これは中身とは関係のない、外側の事情です。
二つ目は、言語の層。ロシア語の発信は、そのままでは日本語話者には開かれていません。翻訳という橋がなければ、入口にすら立てない。そして翻訳という橋があっても、圧縮言語といってもいいくらいの性質のロシア語を日本語で読む際は、単に意味の置き換えだけではなく”解凍”あるいは”変圧”的なセンスが必要となり、結果、ロシアでは短く済む文章が日本語だと長くなり、わかりづらくなってしまうか、短くしようとしてエッセンスの幾分かが抜け落ちて、やっぱりわかりづらくなってしまう側面があります。
そして三つ目。これが本当の核心だと、わたしは思っています。ヴァジム・ゼランド直系の言葉は、そのままするっと飲み込めるようには出来ていない、ということです。
「飲み込みにくい」のは、薄めていないから
ゼランド氏の文章も、その流れを汲むサマリナ氏の回答も、哲学的な言い回しが多く、抽象度が高く、情報密度も濃いです。どれも、一度立ち止まって噛まなければ、奥行きが見えてきません。読み流すと、言葉の表面だけが滑っていきます。
一方、爆発的に再生される「ざっくり解説」は、ここを肩代わりしてくれます。短い時間で「要するにこういうこと」とまとめ、咀嚼の手間を引き受けてくれる。飲み込みやすく、消化もいい。だから広く届く。けれど、ここで立ち止まりたいのです。飲み込みやすさは、いつも薄めることと引き換えになっていないか、と。
知識は向こうから勝手にやってくる。より正確に言えば、自分の理性が勝手な作り話をやめたとき、知識が自分の中に入ってくるのです。
ヴァジム・ゼランド インタビューより
ゼランド氏は、タフティを言葉にするのに3年かかったと言いました。リアリティ・トランサーフィン全5巻という大著をすでに書き上げていた人が、です。本人の知性が足りなかったのではありません。降りてきたものの桁が、それまでの自分の「知性」を上回っていた。だから、薄めずに形にするには、3年という時間が必要だった。その3年分の濃度を、数十分で飲み込めるように整えるとき、何かがこぼれ落ちます。そしてこぼれ落ちたもののなかにこそ、一番大事なものがあるのです。
二つの「わかりやすさ」
ここで、二種類の「わかりやすさ」を分けておきたいと思います。同じ言葉でも、向いている方向が正反対だからです。
ひとつは、薄めるわかりやすさ(消費される知)。原典の濃度を下げ、噛まずに飲み込める形にする。その場では「わかった」感触が残るけれど、自分の中では何も動かない。次の刺激を求めて、また別の解説を探すことになる。
もうひとつは、噛む補助線を引くわかりやすさ(神交ふ知にするために)。原典の濃度はそのままに、「ここはこういう構造です」という補助線だけを添える。飲み込みやすくするのではなく、噛みやすくする。咀嚼する主体は、あくまで読む人自身に残しておく。
前者は、理性が作り話で整えた「わかりやすさ」かもしれません。後者は、わからなさを残したまま、そのわからなさと付き合う手がかりを渡す試みです。
「レベル」には差をつける。「質」には差をつけない
もう10年以上前、ある人がこんなことを言っていました。「レベルには差をつけるが、質には差をつけない」。当時のわたしには、字面しか入ってきませんでした。レベルと質が、どう違うのかも分からなかった。けれど今、ようやく腑に落ちます。これも、長く抱えていた一文が、別の道を通って像を結んだ一つでした。
レベルの差とは、深さや量、踏み込みの度合いの差です。入口の話と、奥の体系の話。無料で触れられるものと、より深く学ぶもの。これは、あっていい。むしろ、学ぶ人の段階に合わせて段差があるのは自然なことです。
質の差とは、薄めるか薄めないかの差です。そして巷の多くの発信は、レベルだけでなく、この質にも差をつけてしまっています。入口では薄めて、口当たりよく、分かった気にさせる。その「見かけのわかりやすさ」が、広く届く理由になっている。
タチアナ・サマリナ氏の発信を見ていると、そうではないと感じます。無料のものと有料のもので、レベル(踏み込みの深さ)は確かに分かれている。けれど、語っている中身の質——ゼランドの思想の濃度、その薄めなさ——は、どちらでも変えていない。無料だから薄める、ということをしないのです。
このアーカイブも、そうありたいと思っています。無料で、非営利で、けれど質は薄めない。記事ごとに、浅い入口から深い体系まで、レベルの段差はつくります。でも、どの一記事でも、原典の濃度そのものは下げない。それが、ここで守りたい一線です。
「説明書」をつくらない
いま世の中にあふれるコンテンツの多くは、突き詰めれば「説明書」なのだと思います。手順を、誰がやっても同じ結果になるように、薄めて固定したもの。再現性のために、書き手の咀嚼を、読み手が省略できるように作られている。つまり説明書とは、構造からして「質を薄めて、レベルを下げたもの」です。
けれど、トランサーフィンは、そもそも説明書としてはできていません。リアリティ・トランサーフィンには、まだ表面的に「手順の顔」がありました。だからこそ「クラシックが懐かしい」と感じる人もいます。手順どおりにやれば再現できる、というあの安心感を。けれど『タフティ』から、そして特に『セルフ・トランサーフィン』以降は、その手順を実行する「自分」そのものを問い直してしまうところがあります。だから手順に落とせない。”みんな同じ”にはならない。戸惑うのは、当然なのです。
サマリナ氏は言います。トランサーフィンはどこにも行っていない、いつもそこにありますよ、と。説明書を探す姿勢そのものが、それを見えなくしている——そういうことなのだと思います。
だから、わたしは説明書をつくってはいけない。これは、はっきりと感じています。記事に添える注釈も、説明書になった瞬間に、役割を裏切ります。補助線と説明書は、紙一重で違います。
読んだ人が、最後に原典と、自分自身の「知」へ戻っていく注釈なら、それは補助線。それだけで分かった気になって、どこにも戻らない注釈なら、それは説明書。同じ「分かりやすくする」でも、送り出す先が逆を向いています。
わからないものを、「悪」としない
10年以上前から、わたしの手元には、二本の糸が同時にありました。
一本は、サンスクリット語です。当時の私はヨガとアーユルヴェーダとサンスクリット語の三つ巴で取り組んでいた時期がありました。サンスクリット語の授業があったある日、般若心経をテーマに「やっぱりサンスクリット語から翻訳しないとね」と言う話になりました。そのとき、先生がこういったのです。
でもやっぱり玄奘三蔵の訳が一番美しいのよね。あれには勝てないわ。
当時、辞書を引きながらなんとかサンスクリット語の般若心経を翻訳できるくらいにはなっていましたが、先生の言う「玄奘三蔵の訳の美しさ」を認識できるだけの知性が、当時の自分にはありませんでした。
もう一本は、アーユルヴェーダの古典書に書かれてある聖句です。ほぼ同じ頃、アーユルヴェーダと若返りをテーマにした講演会で、一冊ずつに著者のDr.が若返りに関係する聖句を一つ、手書きした本を受け取るという企画がありました。聖句は全部で25篇。それがランダムで、誰にどれが渡るかは決まっておらず、席について本を開くまで自分の一句はわかりません。
「真実を語ること」「怒らないこと」「寄附をすること」……いろいろありますが、わたしに来たのは、
「永遠の方へ向いていること」
でした。心も、五感も、手足も、自分自身のすべてを、常に「永遠」の世界の方へ向かせておくこと。見えるものだけでこの世界はできているのではない、と認めながら生きること。しかし、解説を読んでも、当時のわたしには「どういうことだろう」としか思えませんでした。ちなみにアーユルヴェーダでは、老化は「時がもたらす病」と捉えられます。ならば、「時間」とは何なのか——その問いは、まだ手の中で開いたままです。
どちらの糸も、わからないまま、心のどこかに置きっぱなしになりました。アーユルヴェーダもサンスクリットも、いつのまにかやめてしまった。ただ、縁があって、インドへ、そして玄奘三蔵が実際学んだナーランダー跡には、実際に足を運びました。その地に立ちながら、いつも心にはその二つの問いがありました。
それから10年以上。ゼランド氏が、公式サイトやSNSで(のちに書籍セルフ・トランサーフィンに収録)、『変容・再生・進化』について語っているのを読んだとき、像が結びました。単に老化を押し留めることではなく、古いプログラムに固執して朽ちるのをやめ、新しい現実へ移行して成長を遂げることにある、と。あのとき受け取った聖句が指していたのは、これだったのだと。そしてタフティは、「わたしは永遠からやってきました」と言う。
10年前にわからなかった糸が、まったく別の回路を——ロシア語のトランサーフィンを——通って、今ようやく一枚の布の縦糸と横糸になった。あのときすぐに「わかった気」になっていたら、この像は結ばなかったと思います。わからないまま抱えつづけたからこそ、今つながった。
ゼランド氏自身、タフティの知が「降りてきた」ときのことを、こう語っています。
自分は何も発明していません。知識は向こうから勝手にやってくるのです。より正確には、自分の理性が勝手な作り話をやめたとき、知識が入ってくるのです。
そしてその内容を一冊の本にするのに、3年かかったと言います。
難しい、というのは控えめな表現です。私の知性では、この本が要求してくるものを、なんとか引き出すのがやっとでした。
降りてきた瞬間ではなく、人に伝えられるだけのカタチができるまでに、3年という年月を必要としたのです。
ここで AI を使っているのは、ラクをするためではありません。むしろ逆です。とことんまで手を尽くすため。そして、わからないものと、わかった気にならずに付き合いつづけるため。「答え」を出すためでもありません。
古い言葉に「神交ふ(かむがふ)」という考えがあります。”考える”とは、対象を遠くに置いて観察することではなく、身をもって相手と交わること。ゼランド氏の言う「理性が作り話をやめたとき」と、どこか同じ方を向いています。
AIには、つくれない世界
正直に書いておくと、わたしはこのアーカイブをつくるのに、AIをとことん使っています。ロシア語原典の翻訳も、構造の整理も、補助線の下書きも。htmlとか。常時5つ、時には6つのAIを同時並行で走らせています。どうせやるなら中途半端話で、とことん。そして同時に紙と「鉛筆」もめちゃくちゃ大量に使っています。シャーペンでもフリクションでもなく「鉛筆(と消しゴムと鉛筆削り)」です。玄奘三蔵がかつてラクダとともに砂漠を歩いて越えたように、デジタルの極であるAIとアナログの極である紙と鉛筆の両方を「越えるための手段」として使っています。
だからこそ、気づいたことがあります。
AIは、放っておけば、最も高度な「説明書製造機」になります。滑らかに、分かりやすく、薄めて整えることにかけては、桁違いの力を持っています。その引力はとても強い。流されれば、いつのまにか説明書の側へ運ばれていきます。
もうすでに、AmazonではAIによるトランサーフィン解説本が大量に出てきていますし、わかりやすいと好評も得ています。そう遠くない将来AIゼランド(ゼランド氏の画像と音声を抽出して作ったキャラクターに著書のデータを読み込ませればできあがりです)による動画も出てくるのだろうと思います。
でも、そこに「命(ち)」に還る「知」は存在しません。「霊(ち)」にはたらきかけるものもありません。
だから、AIにはつくれない世界を、自分の視座の中に置いておくことが常に求められます。身体を通った経験。実際にその場に立って、その目で見て、その手で触れたもの。10年かけて、ようやく像を結んだ言葉。AIは、バリアントの空間からは受信しません。理性(学習したものの再配列)で組み立てます。「バリアント」に、AIは入れないのです。入れるのは自分の「魂」だけです。
だとすれば、わたしの仕事は、こうなります。AIには、翻訳も整理も下書きも、とことんやってもらう。けれど、その全部を最後に、「血(ち)が通った人間の視座」でくぐらせること。単なる説明書になっていないか——読む人を理性に閉じ込めていないか、それとも「永遠」へ送り出せる燃料となっているか。ヴァジム・ゼランドやタチアナ・サマリナの言葉を薄めてないか。とことん向き合い、エネルギーを注ぎ続けること。記事の大量生産もやりません。
10年以上前にわたしのもとにやってきた言葉。
「永遠の方へ向いていること」
このサイト構築を通してトランサーフィンやタフティに向き合うことは、わたしにとって永遠の方を向き続ける行為なのです。
知は、消費するためにあるのではありません。命(ち)へ還り、また誰かの命(ち)へ受け渡されていくためにあります。このアーカイブもまた、その循環の中にある一つの「取次」の場でありたいと思っています。
CROSSOVER DIMENSION:HEH
知から、命(ち)へ。