気づきの中心点─内側と外側を、同時に見るには?

タフティ

気づきの中心点
── 内側と外側を、同時に見るには?

2026.02.10 トランサーフィンセンター 質疑応答ライブ

タフティの「気づきの中心点」について、こんな質問がトランサーフィンセンターの質疑応答ライブでとりあげられていました。
内側と外側を同時に見ると言われても、集中できるのはどちらか一つのはずだ——という、とても具体的な引っかかりです。
誰もが一度は抱いたかもしれない、そんな質問に対するタチアナ・サマリナの回答をお届けします。

質問

気づきの中心点に関する質問です。内側(内部スクリーン=自分の状態)と外側(外部スクリーン=目の前で起きてる現実)を同時に見るというメカニズムがわかりません。
集中できるのは一つだけのはずです。それとも、ここでは素早い切り替えのことについて話しているのでしょうか?

気づきの中心点:内側と外側を同時に見るにはどうすればよいか?(ロシア語)
2026.03.08 公開 ── 質疑応答の夕べ 抜粋
動画はロシア語です。再生できない場合は YouTubeで視聴 →

答えは「素早い切り替え」

サマリナ氏の回答は、質問者が自分で立てた仮説を、そのまま肯定するところから始まります。

はい、ここでは素早い切り替えについて話しています。
つまり、気づきの中心点に入り、「自分を見て、現実を見る」と言うことです。

タチアナ・サマリナ

これはつまり、自分自身を——自分の注意がどこにあるか、この瞬間にそれが何に占められているかを——観察していること。そして、自分がいま現実にどのように対峙しているかを観察していること。
いわば、目覚めること、目を覚ますことです。

NOTE ──「同時」という言葉の落とし穴

ここは、この回答のいちばん実用的な部分かもしれません。質問者は「同時に見る」を二つの対象に同時に集中することだと受け取っていました。そして、それは無理だと感じた。実際、無理です。人間の集中は、そういう作りになっていません。

ここで書籍『タフティ・ザ・プリーステス』のLesson1「2つのスクリーン」に、もう一度目を通してみましょう。一度も「集中」という言葉が使われていないことに気が付くでしょう。そう。ここでは「集中」するのではありません。

集中とは何でしょうか。懐中電灯の光を想像してください。懐中電灯を特定の場所へ向けるとき、そこに光が「集中」します。これが、普段眠りに落ちているときの「注意(エネルギーの向け先)」の状態です。光の束が細いので、「内部スクリーン(自分の考え事)」か「外部スクリーン(目の前の出来事)」の、どちらか一方にしか光を当てることができません。ですから、同時に「集中」することはできないのです。

では、内部スクリーンと外部スクリーンを素早く行き来すること、それがサマリナ氏の言う“素早い切り替え”なのでしょうか。いいえ、違います。懐中電灯をブンブン振り回すのと同じで、そのマルチタスクで疲労困憊し、エネルギーがなくなってしまいます。

サマリナ氏の言う“素早い切り替え”とは、自分自身と、自分の「注意」が今どこにあり、何に囚われているかを観察すると同時に、現実を観察する(今、自分がその現実にどう反応しているかを見る)ということを意味します。そのポジションを、気づきの中心点といいます。

気づきの中心点は、しばしば見張り・歩哨に例えられます。つまり、第一に「今この瞬間、自分の注意がどこにあるか、何に占められているか」、第二に「自分の周りで何が起きているか」、そして第三に「自分自身が何をしているか」を追跡(パトロール)することによって、貴重な注意(エネルギーの矢印)が、システム(振り子)に吸い取られていないかをチェックするのです。

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内部スクリーンと、外部スクリーン

気づきの中心点が必要なのは、自分の注意がいまどこにあるのかを見られるようにするためだとサマリナ氏は言います。内部スクリーンにあるのか、それとも外部スクリーンにあるのか。

内部スクリーン

私たちの思考。頭の中で回っていること、考え続けていること。

外部スクリーン

私たちが自分の周りに見ているものすべて。目の前の状況、人、出来事。

そして——もしかすると、私たちはその外側のスクリーンで誰かを非難していたり、何かが気に入らなかったりするかもしれません。そのとき、私たちは注意を自分自身に戻します

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「注意を自分に戻す」は、思考に沈むことではない

ここで、サマリナ氏はわざわざ念を押します。

自分自身に戻すというのは、自分の思考に没入するという意味ではありません。
逆に、もしあなたの注意がどこかで立ち往生しているなら、これらの2つのスクリーンから引き抜くということです。

タチアナ・サマリナ

注意を自分に戻す、と聞くと、つい内省へ——つまり思考の中へ——潜っていきそうになります。けれどそれは、内部スクリーンに沈み込むことであって、中心に戻ることではありません。
だから、“引き抜く”なのです。

そうすることで、内部スクリーンと外部スクリーンを観察し、2つのスクリーンの間で自分自身に注意を取り戻し、中心に、気づきのポイントに入ったことになる。
そしてまさにこれが、「素早い切り替え」の話なのだ——回答は、そう結びます。

NOTE ── なぜ「引き抜く」なのか

引き抜く、という表現は言い得て妙です。注意とは、エネルギーの向け先、注ぎ先のことでした。いうなれば、内部スクリーンにせよ外部スクリーンにせよ、注意がそこにあるときは、まるでプラグかノズルを通して、そこにエネルギーを注ぎ続けているようなもの。そうして注げば注ぐほどエネルギーレベルは低くなり、メタパワー(現実を動かす力)に手が届かなくなるのです。

たとえば、嫌な出来事(外部スクリーン)があってイライラしたとき。「いけない、他人に振り回されちゃダメだ。自分に注意を戻そう」と考えます。そして「なんでいつもこうなんだろう」「そういえば前もあんなことがあった」「私のブロックが原因だわ」と、自分の頭の中の考え事や悩みに没頭してしまう。
しかしタフティに言わせれば、それは注意を自分に取り戻したのではなく、外部スクリーンから内部スクリーンへと移動しただけ。そこでまた眠りに落ちただけだ、というわけです。

だからこそ、物理的にプラグを引っこ抜くように、両方のスクリーンから注意を剥がして「真ん中」に置くこと。すると懐中電灯ではなく、広角レンズのレーダーのように、ただ「そこにある」だけで、自分の内側の感情の揺れも、外側で起こっているトラブルも、「一つの全体的な空間の揺らぎ」として、本当に「同時」に感知することができるのです。

そのために、「自分の注意が今どこにあるか」に、ただ気づくことが必要なのです。

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訓練が必要な理由

回答の最後に、サマリナ氏は現状に触れています。注意の管理(ハンドリング)に関する質問が、いま非常に多いのだと。これは定番の質問だと思う、今日もそのうちいくつかを取り上げた、と。

そのうえで、最初に伝えたいこととして挙げられたのは、たった一つでした。

私たちに必要なのは何でしょうか?
訓練すること、自分の注意を管理(ハンドリング)することです。

タチアナ・サマリナ

そして──もちろん、開かれた心で聞きましょう。そう呼びかけて、この抜粋は終わります。
(※ここでの「開かれた心(オープンハート)」とは、「えー、無理」「私にはできない」「そんなのホントにできるの〜?」という頭の中の評価(ジャッジや疑い)を捨てて、ただの事実としてスッと受け入れる(受容する)ことです。)

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NOTE ── HEH編集部

この回答で、少し立ち止まりたくなる箇所があります。サマリナ氏が「注意の管理に関する質問が非常に多い、これは定番だと思う」と述べているところです。

気づきの中心点は、タフティのほとんど冒頭に出てくる概念です。それについて、本国ロシアで、いまもこれだけ質問が寄せられている。しかも「内と外を同時になんて無理では」という、いちばん基礎の部分で。
受け取り方は二つあると思います。ひとつは、これだけ長く読まれている土地でも詰まるのだから、翻訳を通して受け取る私たちが詰まるのは当然だ、ということ。もうひとつは、この概念がそれだけ深く、一度の説明では底に届かないのだ、ということ。

そしておそらく、質問が絶えないのは、これが知識ではなく技能だからです。「素早い切り替えとは、中心に戻ることだ」と一度聞けば、意味は分かります。でも分かった翌日にできるとは限らない。だから回答が「訓練すること」の一語に落ちるのは、はぐらかしではなく、そこが本体なのだと読めます。
言葉としての正解を受け取った後に、まだやることが残っている。「自分を見て、現実を見る」が唱えるだけでは足りないという話と、根は同じところにあります。

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同時に、二つを行き来するのではなく
ただ、中心に戻る

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この記事を書いた人

トランサーフィン/タフティのロシア語一次ソースを辿り、誰でも原典へ還れる知のインフラ〈Heh〉をつくっています。
源泉と日本語のあいだに立ち、消費されて終わる「知」ではなく、知から、命(ち)へ。
その道の先で、原典と人生が交差することを願っています。

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